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グローカルな旅とは: Local(地域文化)に足を運びその地の魅力と出会い、Global(地球規模もしくは普遍的)にツナガル視点でLocalを愉しむ旅(Global x local = Glocal)
バックナンバーは こちら です。
5月も中旬の頃、新潟県南魚沼市の大沢山の中腹から展望を眺めている。 群馬県と新潟県の境に連なる三国山脈。 その最高峰でランドマークになっている巻機山(まきはたやま)を中心に、5月でもまだ雪の残る山々が視界いっぱいに優しくそびえている。 今立っている山腹には棚田もあり、2日前から鳴き始めたという蛙の合唱が里山風情を引き立てていた。
地元の方の説明を聞くことができた。
昔から巻機山と大沢山の水がこの地域で1番美味しいと言われていて、これらの山の源流が魚沼のお米を上質なものにしてくれてトップブランドとなれているのだという。
そして、この地域は豪雪地帯。古い民家の梁はとても太く豪奢であり、それは何メートルも積もる雪の重さに耐えるため。 昨年は特に豪雪で交通麻痺など生活インフラがおかしくなって大変だったけれども、おかげさまで雪解け水が豊かで、今年は山菜もお米も美味しく豊作が期待できるという。
地元の方の説明を聞きながら、感じ入ってしまった。話の中で何度も「御山(おやま)」と口にする。 「山」ではなく「御山」。御山の恵みに感謝し、3メートルも積もるという豪雪に困りつつも自然の恵みだと感謝する。
自分は幼い頃、山を見るときに、確かに心情的に「御山」だと感じていた。 恵みがどうこうとか理解できたわけではないが、何か森羅万象のつながりとでもいうか、とても豊かでちょっぴり畏怖を感じる、何か大きな存在だった。 幼い頃は本質を感じ取っていたのだ。 自分は、いつから、「御山」ではなく、「山」という個別の物質のような、部分的で浅はかな捉え方に変わって行ったのだろう?
「山」ではなく「御山」。 この小さな言葉の感性の違いが人生になんと大きな差を生み出すのだろうか。 人生に対する後悔が浮かぶと同時に、今気づけて良かったという感謝が混濁して渦巻いたのであった。 なぜならば、この小さな違いの功罪は、私たちの生活のあらゆる面を浸食しているからだ。見つめなおしていかねばならない。
「山」ではなく「御山」、と同様に 「仕事」ではなく「御仕事」。
ビジネスにしても家事にしても、 「仕事をする」ではなく「仕事をさせていただいている。」 「役割を担う」ではなく「役割を担わせていただいてる。」
そして「縁」ではなく「御縁」。 「他者とかかわる」ではなく「他者とかかわらせていただいている。」 「〜してあげてる」ではなく「〜させていただいている。」
たったこれだけの言葉の違いで、何か部分から全体につながり、そこにある不可思議なほど美しい恵みや繋がりを感じ取れる。 ありがたい気持ちが湧き上がり、自身に活力を生む。
これは宗教でもなければ、自己啓発の話でもないだろう。 人間存在の調和の構造を示唆する話であり、言葉の感性の話であり、古しえの感性に対する自身そして現代人の劣化の話なのである。
そしてわたしたちがどこに転がろうと、関係ない。 この南魚沼の山脈に巻機山は悠然とそびえ、棚田には蛙が息づき、命の営みと循環は回り続けていくのだ。
グローカルな旅とは: Local(地域文化)に足を運びその地の魅力と出会い、Global(地球規模もしくは普遍的)にツナガル視点でLocalを愉しむ旅(Global x local = Glocal)
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5月も中旬の頃、新潟県南魚沼市の大沢山の中腹から展望を眺めている。
群馬県と新潟県の境に連なる三国山脈。
その最高峰でランドマークになっている巻機山(まきはたやま)を中心に、5月でもまだ雪の残る山々が視界いっぱいに優しくそびえている。
今立っている山腹には棚田もあり、2日前から鳴き始めたという蛙の合唱が里山風情を引き立てていた。
地元の方の説明を聞くことができた。
昔から巻機山と大沢山の水がこの地域で1番美味しいと言われていて、これらの山の源流が魚沼のお米を上質なものにしてくれてトップブランドとなれているのだという。
そして、この地域は豪雪地帯。古い民家の梁はとても太く豪奢であり、それは何メートルも積もる雪の重さに耐えるため。
昨年は特に豪雪で交通麻痺など生活インフラがおかしくなって大変だったけれども、おかげさまで雪解け水が豊かで、今年は山菜もお米も美味しく豊作が期待できるという。
地元の方の説明を聞きながら、感じ入ってしまった。話の中で何度も「御山(おやま)」と口にする。
「山」ではなく「御山」。御山の恵みに感謝し、3メートルも積もるという豪雪に困りつつも自然の恵みだと感謝する。
自分は幼い頃、山を見るときに、確かに心情的に「御山」だと感じていた。
恵みがどうこうとか理解できたわけではないが、何か森羅万象のつながりとでもいうか、とても豊かでちょっぴり畏怖を感じる、何か大きな存在だった。
幼い頃は本質を感じ取っていたのだ。
自分は、いつから、「御山」ではなく、「山」という個別の物質のような、部分的で浅はかな捉え方に変わって行ったのだろう?
「山」ではなく「御山」。
この小さな言葉の感性の違いが人生になんと大きな差を生み出すのだろうか。
人生に対する後悔が浮かぶと同時に、今気づけて良かったという感謝が混濁して渦巻いたのであった。
なぜならば、この小さな違いの功罪は、私たちの生活のあらゆる面を浸食しているからだ。見つめなおしていかねばならない。
「山」ではなく「御山」、と同様に
「仕事」ではなく「御仕事」。
ビジネスにしても家事にしても、
「仕事をする」ではなく「仕事をさせていただいている。」
「役割を担う」ではなく「役割を担わせていただいてる。」
そして「縁」ではなく「御縁」。
「他者とかかわる」ではなく「他者とかかわらせていただいている。」
「〜してあげてる」ではなく「〜させていただいている。」
たったこれだけの言葉の違いで、何か部分から全体につながり、そこにある不可思議なほど美しい恵みや繋がりを感じ取れる。
ありがたい気持ちが湧き上がり、自身に活力を生む。
これは宗教でもなければ、自己啓発の話でもないだろう。
人間存在の調和の構造を示唆する話であり、言葉の感性の話であり、古しえの感性に対する自身そして現代人の劣化の話なのである。
そしてわたしたちがどこに転がろうと、関係ない。
この南魚沼の山脈に巻機山は悠然とそびえ、棚田には蛙が息づき、命の営みと循環は回り続けていくのだ。