【世界民芸曼陀羅紀】トルコ・イブリク編

民芸にはいろんな顔があります。
どの顔を思い浮かべながら話し聞くかで、内容がすっかり変わってしまいます。

ここではアミナコレクションの創業者・進藤幸彦が、世界で実際に出会い、見聞きしたその民俗(フォークロア)を綴ります。

世界民芸曼陀羅 トルコ編
1 イブルク ~トイレにたずさえる優美な水差し~

いよいよ船出だ。
早朝の横浜港、山下公園そばの大桟橋は一九六九年の九月の半ばの緊張感にぴりっとしていた。
私は用心深く出航の二時間前には通関をすませようと、まだガラガラの大桟橋に桜木町からタクシーに乗って駆け付けた。

二年越しの計画だった。
日本民芸の源流のひとつ、中央アジアへ行きたかったのだ。
ただ調べてみると、そこは主として、トルコ系やイラン系、モンゴル系、チベット系、そして漢民族の人種のモザイク地帯になっている。
当時は旧ソ連も中国も今ほどには寛大ではなかった。
自由な調査も通行も認められていない。

私は苦肉の策として、トルコ大使館留学生試験を受けた。
民俗の文化はトルコ本国のほうが残されているにちがいない。調査の自由がある。
一年の予定で、旅費は自分もち、生活費と受講料はトルコ政府がもつという留学だった。

ところがいよいよ乗船の手続きが始まり出して、大変な失敗に気がついた。
パスポートがどこにもないのである。
やっきになると余計わからなくなる。
そう、いいきかせいいきかせ、何度見直してもない。
カメラだの8ミリだのノートだの寝袋だのをトランクからほうりだしてみたが、どこにもパスポートがないのだ。

瞬間的に頭を三六〇度、回転させるように働かせ、やっと気がついた。
東京銀行の日比谷支店だ。
そのころ私たちが外貨を得られた唯一の銀行である。
すでに望みは消えつつあったが、念のため未練がましく電話した。
支店長になぜ現金と一緒に返してくれなかったか、もしくは連絡してくれなかったか、毒気たっぷりに文句を言った。
ナホトカからあとの鉄道も飛行機も、中央アジアでの滞在ホテルも、その年、最終便のイスタンブール行き黒海航路に接続していた。

「責任を取ってくださいますか」と逆上したのも無理はない。
資金を借り集めたこと、職場で一年に長期休暇をやっと取れたことなどが、一瞬、頭をよぎった。
残り時間が二十分を切り、十分を切り、ナホトカ行き「トルクメニア号」は出て行った。
波止場にトランクとリュックをかついだ私を残して。

だから、私はさらに二十分後に、その巨大な船にどうして乗れたのか、いまだに信じられない気持ちだ。
銀行の人がタクシーから転がるように降りて来て、税関事務所に駆け込んだ。
それから私は、公園横の水上ランチに飛び乗り、すごい勢いで追いかけたのだ。
「トルクメニア号」が、やっと気付いてくれて停船したのは、今のベイブリッジの少し外だった。

さて、こうして多くの人の協力を得てトルコに入り、初めは首都のアンカラでトルコ語漬け、それから全国の村や町に出た。
まず民俗芸能の調査が先だった。

民芸品ということになると、あまり注意してなかったが、いやおうなく目に入ってくる物もある。
有名なトルコ絨毯とか、赤銅の器や皿とか、アクセサリー、スカーフとかいろいろ地方によって異なる物がある。

しかし何と言っても強い印象に残るのは、銅製の水差しだ。
水飲み用としてではなく、トイレに連れて行くものである。
最初に入った片田舎の村では、食事はソフラという大きい風呂敷を、集まった家族のひざの上にかけて、テーブルがわりにする。
夜は暖炉の焚火や漆黒の中で眠る。
トイレは家からやや離れた下手に作ってあり、戸口に用意してある銅製の水差しを片手にもって、坂道を下りて行く。

水のたっぷり入った水差しの取っ手は露がおりたように湿り気があり、その家の主人の気配りを感じた。
使うときは左の手の平に注ぎ口から水をためて、無駄のようにうまく使う。
だから注ぎ口が長く細い、筒状のものが使いやすかった。

しかし、用が足りてしまうと、蹴とばさないように少し離れたところに置く。
その結果、立ち上がって身づくろいをすますと、そのまま歩き出すことが多かった。

私は何度も、この水差しを忘れ、また坂道を上り下りした。
しかしパスポートよりはましだと、いつも自分を落ち着かせたものだった。

進藤彦興著、  『世界民芸曼陀羅』  から抜粋

第一刷 一九九二年九月


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