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「チチェン・イッツァとはどんな場所か」「何がすごくて世界遺産に選ばれたのか」「メキシコにはどんな古代文明が栄えたのか」―そんな疑問を持つあなたへ。
この記事では、メキシコの世界遺産、チチェン・イッツァの歴史や謎、強烈すぎる世界観まで深掘り解説します。世界の観光客が集まる人気スポットとしての魅力や見どころも紹介するので、旅行前の予習にも最適です。
読み終わる頃には、きっと心はユカタン半島に飛んでいきますよ。
チチェン・イッツァは、メキシコのユカタン半島北部中央にある、マヤ文明の遺跡です。特に、後古典期マヤ(900~1100年頃)では最大の都市遺跡とされます。
ジャングルの中にピラミッドや神殿、天文台や球戯場が建ち並ぶ、神秘の古代都市。そして、突然放棄された謎の遺跡です。
チチェン・イッツァとは、マヤ語で「イッツァ族の泉のほとり」を意味します。イッツァ族は、かつてユカタン半島北部を支配していた民族。そして名前の通り、聖なる泉「セノーテ」の上に築かれています。
より細かくみると、「チ」は端、「チェン」は泉、「イッツ」は魔法、「ア」は水の意味。つまりチチェン・イッツァは、「水の魔法使いの聖なる泉のほとり」なのです。
この都市は、6世紀頃にイッツァ人によって最初に築かれました。しかし、7世紀頃に都市は一度放棄されたのです。
10世紀、メキシコ高原のトルテカ文明の影響を受けたイッツァ人が再来。この時代に天文台カラコルなどが建造されました。
以降、12世紀にかけてプウク式建築が多く見られるようになります。ピラミッドのエル・カスティージョなど、華々しい建築群が隆盛を極めたのです。
13世紀以降になると新しい建造物は建てられず、15世紀には衰退します。いつ滅亡したのかは不明で、19世紀末にはジャングルに埋もれた状態でした。しかし、セノーテはスペイン支配時代以降も巡礼地とされていたのです。
チチェン・イッツァは1988年、ユネスコの世界遺産に登録されました。登録の理由は、以下の3つ。
2007年には新・世界七不思議にも選ばれ、さらに注目度が高まりました。ユカタン州の州都メリダや世界的なリゾート地カンクンからのアクセスも良く、年間250万人以上が訪れる超人気スポットです。
チチェン・イッツァで圧倒的な存在感を放つ建造物が「エル・カスティージョ」。メキシコ観光を代表する有名スポットです。チチェン・イッツァに複数あるピラミッドの中でも最大で、四辺はそれぞれ55.3m、高さは24m。
エル・カスティージョはスペイン語で「城塞」の意味ですが、本来の機能は城塞ではありません。では、何でしょうか?
ここは、マヤの最高神ククルカンを祀る神殿です。そのため、「ククルカンの神殿」や「ククルカンのピラミッド」とも呼ばれます。
ククルカンとは、メキシコ中央高原でケツアルコアトルとして古くから信仰されていた、羽毛のあるヘビの姿をした神です。10世紀頃からユカタン半島でも風や農業、知識の神として信仰されるようになり、マヤ語名でククルカンと呼ばれました。
エル・カスティージョの階段は1面あたり91段あり、4面合計で364段。これに最上部の1段を加えて365段となり、太陽暦の1年を表しています。エル・カスティージョ全体が暦を表す仕組みになっており、「暦のピラミッド」とも呼ばれます。
実は、エル・カスティージョは、なんと内部にもう一つのピラミッドがあります。8〜10世紀のマヤ・トルテカ時代のピラミッドの上に、12世紀にかけて新しいピラミッドが増築されたのです。
内部のピラミッドには、ジャガーを模した赤い玉座と、お腹を天井に向けた不思議な姿の像があります。この像が何かを知っている方は、そのコミカルな恰好にこそ戦慄を覚えるかもしれません。この像はチャック・モールと呼ばれ、お腹に生贄の心臓を捧げるための像です。
エル・カスティージョの前で手を叩くと、石灰岩の階段に反響した音が鳥の鳴き声のように反響します。ククルカンの使いである「ケツァール」の声に聞こえるように設計されているのです。驚きのしかけはこれだけではありません。なんと、ククルカンが降臨するのです。
それは年に2回、春分の日と秋分の日に起こります。太陽が沈む時、ピラミッドの影が階段に映し出されます。その影が、階段の下にあるククルカンの頭の像につながる胴体のように浮かび上がるのです。
その名も「ククルカンの降臨」と呼ばれ、春分と秋分にはこの現象を見るため世界の観光客が遺跡に集まります。
降臨したククルカンは、セノーテで水を飲むとされます。そして、ククルカンの頭の先には本当にセノーテが存在しているのです。
エル・カスティージョは、マヤの高度な天文学と建築技術、さらに自然までもが融合した驚異の装置といえるでしょう。
ユカタン半島は水に溶けやすい石灰岩の地層で、地下には多数の水脈が流れています。これが時間とともに陥没し、セノーテと呼ばれる泉が現れるのです。ユカタン半島には4,000か所以上のセノーテがあるとされ、チチェン・イッツァ周辺にも多数のセノーテが存在します。
チチェン・イッツァには直径60m、水深80mの巨大なセノーテがあります。ここは「雨の神」が住む聖なる場所とされ、生活用水として利用される一方で、宗教儀礼の場でもありました。
豊作や天候回復を祈って、男女や子どもが生贄として投げ込まれたのです。実際に泉からは財宝や人骨などが発見されています。
チチェン・イッツァ周辺には観光向けのセノーテもあり、中でも「イク・キル」が有名です。この泉は水面が地上から27mの深さにあり、ツタが垂れ下がる入口から太陽の光が差し込む幻想的な空間になっています。
この高さを生かして、レッドブル主催の飛び込み大会も開催されました。クリアな水で透明度が高く、シュノーケリングも大人気。ぜひチャレンジしてはいかがでしょうか?
チチェン・イッツァで見逃せないのが、全長168m、幅70mの巨大な球戯場です。球戯場は中央アメリカの普遍的な共通文化で、ほとんどのマヤ遺跡に存在します。
この球戯場では2つのチームに分かれて球技が行われていました。プレイヤーは手を使わず、腰でゴム製のボールを打ち合って壁の石輪に通したのです。興味深いルールですね!
しかし、これはただの娯楽ではないのです。球戯場の壁には、球技の様子が彫られています。豪華なコスチュームの選手たちが対峙している姿とともに刻まれているのは、首を切られた選手のレリーフ。
球技は神々に豊穣や繁栄を祈願する儀式の一環であり、命をかけた神聖な行為だったのです。試合が白熱するほど豊作になったと信じられていました。そして試合後にはいずれかのチームの選手が生贄として神に捧げられたのです。
なお、勝者と敗者のどちらが生贄になったのかは謎に包まれています。
エル・カスティージョと球戯場の近くに、「ツォンパントリ」と呼ばれる祭壇があります。いったいどういう意味でしょうか?
ツォンパントリとは、「頭蓋骨の棚」の意味です。ツォンパントリの壁には、串刺しにされたおびただしい数の髑髏が描かれています。これは、実際にすぐその上の祭壇に、穴を開けて棒を通した生贄の首が並べられていた光景なのです。なんともすさまじい場所ですね!
壁には、ほかにも心臓をつかむ鷹の絵や戦士などさまざまな彫刻が彫られています。
エル・カスティージョに隣接して「戦士の神殿」があります。マヤ文明の戦士文化と、メキシコ中央高原からもたらされたククルカン信仰やトルテカ様式が融合した壮大な建築物です。
周囲を取り囲むのは、柱が立ち並ぶ「千本柱の間」。無数の柱それぞれに武器を持った戦士や捕虜の様子が刻まれている、圧巻の回廊です。
この列柱は、かつては屋根付きの建物で、戦士の集会所だったと考えられています。今では柱だけが静かたたずむ空間に立つと、時の流れに思いを馳せずにはいられないでしょう。
千本柱の間の奥には、高さ約12mのピラミッドがあります。その頂上には神殿があり、入口にはククルカンの石柱やチャック・モール像が。つまりここでも、生贄の儀式が行われていたのです。
戦士の集会所と神殿が隣接しているので、戦いの前に戦士が儀式を行い、ククルカンへ祈りを捧げていたと考えられます。
「カラコル」は、スペイン語で「カタツムリ」を意味する名を持つ天文台です。ドーム内部の螺旋階段にちなんで名付けられました。
マヤ人にとって、天文は社会の中心にある重大事。農耕や戦争などあらゆることが天文によって決められていました。そのため、暦を正確に計算するための天文台は重要な施設だったのです。
カラコルは906年に建造され、遺跡の中央部にあります。つまり、この天文台が都市発展の起点になったと考えられるのです。
ドームには3つの窓があり、月や太陽、星の動きを観察し、夏至や冬至などの暦を読んでいました。この場所がマヤの高度な天文学を支えていたのです。
こうしてみると、チチェン・イッツァは生贄や戦士、戦いの存在感が強いですね。なぜでしょう?
マヤの世界では、動物や人間が犠牲となって神々へ供物を捧げることは、自然や社会の安定を保つために必要な儀式と考えられていました。そして、戦いは単に領土や権力を得るためのものではなく、生贄を確保するためなど、宗教的な意味合いが強かったのです。
戦士はただの兵士ではなく、宗教や王の権威に直結した存在でした。戦士の神殿のような施設が建てられたのは、マヤの社会における戦士の重要性が表れています。
チチェン・イッツァ観光におすすめの時期は、乾季にあたる11月~4月。雨が少なく過ごしやすい気温です。
日差しが強いので、紫外線対策や熱中症対策はしておきましょう。
周囲がジャングルで蚊が多いので、虫除けスプレーなどもあると心強いでしょう。
現在、チチェン・イッツァの建物は基本的に立ち入り禁止となっています。ピラミッドは過去に転落事故が起きたり、観光客が立ち入って問題になったりしています。安全の観点でも遺跡保護の観点でも、登らないようにしましょう。
メキシコにあるマヤ文明の遺跡チチェン・イッツァ、いかがだったでしょうか?
高度な天文学や建築技術を持ちながら忽然と歴史から姿を消した謎の都市は、世界の人々を魅了してやみません。歴史ロマンに浸れる世界遺産であり、旅行先としてもイチオシのスポットです。
この記事を読んだあなたがメキシコの文化に興味を持ち、現地を訪れるきっかけになれば幸いです!
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「チチェン・イッツァとはどんな場所か」「何がすごくて世界遺産に選ばれたのか」「メキシコにはどんな古代文明が栄えたのか」―そんな疑問を持つあなたへ。
この記事では、メキシコの世界遺産、チチェン・イッツァの歴史や謎、強烈すぎる世界観まで深掘り解説します。世界の観光客が集まる人気スポットとしての魅力や見どころも紹介するので、旅行前の予習にも最適です。
読み終わる頃には、きっと心はユカタン半島に飛んでいきますよ。
目次
マヤ文明最大級の都市遺跡チチェン・イッツァ
チチェン・イッツァは、メキシコのユカタン半島北部中央にある、マヤ文明の遺跡です。特に、後古典期マヤ(900~1100年頃)では最大の都市遺跡とされます。
ジャングルの中にピラミッドや神殿、天文台や球戯場が建ち並ぶ、神秘の古代都市。そして、突然放棄された謎の遺跡です。
チチェン・イッツァとは、マヤ語で「イッツァ族の泉のほとり」を意味します。イッツァ族は、かつてユカタン半島北部を支配していた民族。そして名前の通り、聖なる泉「セノーテ」の上に築かれています。
より細かくみると、「チ」は端、「チェン」は泉、「イッツ」は魔法、「ア」は水の意味。つまりチチェン・イッツァは、「水の魔法使いの聖なる泉のほとり」なのです。
チチェン・イッツァはどのように築かれたのか
この都市は、6世紀頃にイッツァ人によって最初に築かれました。しかし、7世紀頃に都市は一度放棄されたのです。
10世紀、メキシコ高原のトルテカ文明の影響を受けたイッツァ人が再来。この時代に天文台カラコルなどが建造されました。
以降、12世紀にかけてプウク式建築が多く見られるようになります。ピラミッドのエル・カスティージョなど、華々しい建築群が隆盛を極めたのです。
13世紀以降になると新しい建造物は建てられず、15世紀には衰退します。いつ滅亡したのかは不明で、19世紀末にはジャングルに埋もれた状態でした。しかし、セノーテはスペイン支配時代以降も巡礼地とされていたのです。
世界遺産に登録された理由
チチェン・イッツァは1988年、ユネスコの世界遺産に登録されました。登録の理由は、以下の3つ。
2007年には新・世界七不思議にも選ばれ、さらに注目度が高まりました。
ユカタン州の州都メリダや世界的なリゾート地カンクンからのアクセスも良く、年間250万人以上が訪れる超人気スポットです。
最大の見どころ「エル・カスティージョ」
チチェン・イッツァで圧倒的な存在感を放つ建造物が「エル・カスティージョ」。メキシコ観光を代表する有名スポットです。チチェン・イッツァに複数あるピラミッドの中でも最大で、四辺はそれぞれ55.3m、高さは24m。
エル・カスティージョはスペイン語で「城塞」の意味ですが、本来の機能は城塞ではありません。では、何でしょうか?
ここは、マヤの最高神ククルカンを祀る神殿です。そのため、「ククルカンの神殿」や「ククルカンのピラミッド」とも呼ばれます。
ククルカンとは、メキシコ中央高原でケツアルコアトルとして古くから信仰されていた、羽毛のあるヘビの姿をした神です。10世紀頃からユカタン半島でも風や農業、知識の神として信仰されるようになり、マヤ語名でククルカンと呼ばれました。
エル・カスティージョの階段は1面あたり91段あり、4面合計で364段。これに最上部の1段を加えて365段となり、太陽暦の1年を表しています。エル・カスティージョ全体が暦を表す仕組みになっており、「暦のピラミッド」とも呼ばれます。
シュールな彫刻があるって本当?
実は、エル・カスティージョは、なんと内部にもう一つのピラミッドがあります。8〜10世紀のマヤ・トルテカ時代のピラミッドの上に、12世紀にかけて新しいピラミッドが増築されたのです。
内部のピラミッドには、ジャガーを模した赤い玉座と、お腹を天井に向けた不思議な姿の像があります。この像が何かを知っている方は、そのコミカルな恰好にこそ戦慄を覚えるかもしれません。この像はチャック・モールと呼ばれ、お腹に生贄の心臓を捧げるための像です。
「ククルカンの降臨」を見るチャンスは年2回
エル・カスティージョの前で手を叩くと、石灰岩の階段に反響した音が鳥の鳴き声のように反響します。ククルカンの使いである「ケツァール」の声に聞こえるように設計されているのです。
驚きのしかけはこれだけではありません。なんと、ククルカンが降臨するのです。
それは年に2回、春分の日と秋分の日に起こります。太陽が沈む時、ピラミッドの影が階段に映し出されます。その影が、階段の下にあるククルカンの頭の像につながる胴体のように浮かび上がるのです。
その名も「ククルカンの降臨」と呼ばれ、春分と秋分にはこの現象を見るため世界の観光客が遺跡に集まります。
降臨したククルカンは、セノーテで水を飲むとされます。そして、ククルカンの頭の先には本当にセノーテが存在しているのです。
エル・カスティージョは、マヤの高度な天文学と建築技術、さらに自然までもが融合した驚異の装置といえるでしょう。
生贄が投げ込まれたセノーテ
ユカタン半島は水に溶けやすい石灰岩の地層で、地下には多数の水脈が流れています。これが時間とともに陥没し、セノーテと呼ばれる泉が現れるのです。ユカタン半島には4,000か所以上のセノーテがあるとされ、チチェン・イッツァ周辺にも多数のセノーテが存在します。
チチェン・イッツァには直径60m、水深80mの巨大なセノーテがあります。ここは「雨の神」が住む聖なる場所とされ、生活用水として利用される一方で、宗教儀礼の場でもありました。
豊作や天候回復を祈って、男女や子どもが生贄として投げ込まれたのです。実際に泉からは財宝や人骨などが発見されています。
チチェン・イッツァ周辺には観光向けのセノーテもあり、中でも「イク・キル」が有名です。この泉は水面が地上から27mの深さにあり、ツタが垂れ下がる入口から太陽の光が差し込む幻想的な空間になっています。
この高さを生かして、レッドブル主催の飛び込み大会も開催されました。クリアな水で透明度が高く、シュノーケリングも大人気。ぜひチャレンジしてはいかがでしょうか?
生贄を決める場⁉「球戯場」
チチェン・イッツァで見逃せないのが、全長168m、幅70mの巨大な球戯場です。球戯場は中央アメリカの普遍的な共通文化で、ほとんどのマヤ遺跡に存在します。
この球戯場では2つのチームに分かれて球技が行われていました。プレイヤーは手を使わず、腰でゴム製のボールを打ち合って壁の石輪に通したのです。興味深いルールですね!
しかし、これはただの娯楽ではないのです。球戯場の壁には、球技の様子が彫られています。豪華なコスチュームの選手たちが対峙している姿とともに刻まれているのは、首を切られた選手のレリーフ。
球技は神々に豊穣や繁栄を祈願する儀式の一環であり、命をかけた神聖な行為だったのです。試合が白熱するほど豊作になったと信じられていました。そして試合後にはいずれかのチームの選手が生贄として神に捧げられたのです。
なお、勝者と敗者のどちらが生贄になったのかは謎に包まれています。
頭蓋骨が並ぶ祭壇「ツォンパントリ」
エル・カスティージョと球戯場の近くに、「ツォンパントリ」と呼ばれる祭壇があります。いったいどういう意味でしょうか?
ツォンパントリとは、「頭蓋骨の棚」の意味です。ツォンパントリの壁には、串刺しにされたおびただしい数の髑髏が描かれています。これは、実際にすぐその上の祭壇に、穴を開けて棒を通した生贄の首が並べられていた光景なのです。なんともすさまじい場所ですね!
壁には、ほかにも心臓をつかむ鷹の絵や戦士などさまざまな彫刻が彫られています。
柱の回廊が続く「戦士の神殿」
エル・カスティージョに隣接して「戦士の神殿」があります。マヤ文明の戦士文化と、メキシコ中央高原からもたらされたククルカン信仰やトルテカ様式が融合した壮大な建築物です。
周囲を取り囲むのは、柱が立ち並ぶ「千本柱の間」。無数の柱それぞれに武器を持った戦士や捕虜の様子が刻まれている、圧巻の回廊です。
この列柱は、かつては屋根付きの建物で、戦士の集会所だったと考えられています。今では柱だけが静かたたずむ空間に立つと、時の流れに思いを馳せずにはいられないでしょう。
千本柱の間の奥には、高さ約12mのピラミッドがあります。その頂上には神殿があり、入口にはククルカンの石柱やチャック・モール像が。つまりここでも、生贄の儀式が行われていたのです。
戦士の集会所と神殿が隣接しているので、戦いの前に戦士が儀式を行い、ククルカンへ祈りを捧げていたと考えられます。
カタツムリ型の「天文台(カラコル)」
「カラコル」は、スペイン語で「カタツムリ」を意味する名を持つ天文台です。ドーム内部の螺旋階段にちなんで名付けられました。
マヤ人にとって、天文は社会の中心にある重大事。農耕や戦争などあらゆることが天文によって決められていました。そのため、暦を正確に計算するための天文台は重要な施設だったのです。
カラコルは906年に建造され、遺跡の中央部にあります。つまり、この天文台が都市発展の起点になったと考えられるのです。
ドームには3つの窓があり、月や太陽、星の動きを観察し、夏至や冬至などの暦を読んでいました。この場所がマヤの高度な天文学を支えていたのです。
何故マヤ文明には生贄や戦士の像が多いのか?
こうしてみると、チチェン・イッツァは生贄や戦士、戦いの存在感が強いですね。なぜでしょう?
マヤの世界では、動物や人間が犠牲となって神々へ供物を捧げることは、自然や社会の安定を保つために必要な儀式と考えられていました。そして、戦いは単に領土や権力を得るためのものではなく、生贄を確保するためなど、宗教的な意味合いが強かったのです。
戦士はただの兵士ではなく、宗教や王の権威に直結した存在でした。戦士の神殿のような施設が建てられたのは、マヤの社会における戦士の重要性が表れています。
チチェン・イッツァを訪れる際の注意点
チチェン・イッツァ観光におすすめの時期は、乾季にあたる11月~4月。雨が少なく過ごしやすい気温です。
日差しが強いので、紫外線対策や熱中症対策はしておきましょう。
周囲がジャングルで蚊が多いので、虫除けスプレーなどもあると心強いでしょう。
現在、チチェン・イッツァの建物は基本的に立ち入り禁止となっています。ピラミッドは過去に転落事故が起きたり、観光客が立ち入って問題になったりしています。安全の観点でも遺跡保護の観点でも、登らないようにしましょう。
強烈な個性で世界を圧倒する古代都市
メキシコにあるマヤ文明の遺跡チチェン・イッツァ、いかがだったでしょうか?
高度な天文学や建築技術を持ちながら忽然と歴史から姿を消した謎の都市は、世界の人々を魅了してやみません。歴史ロマンに浸れる世界遺産であり、旅行先としてもイチオシのスポットです。
この記事を読んだあなたがメキシコの文化に興味を持ち、現地を訪れるきっかけになれば幸いです!
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