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世界で最も人気があるスポーツのサッカー。
特に世界一を決めるワールドカップは世界中が熱狂し、世界最大の祭典と言えます。FIFA(国際サッカー連盟)のまとめでは、2022年カタール大会の累計視聴者数は約56億人で、決勝戦は約15億人がテレビや配信で観戦したとされています。
これほどまでの人気を集めるようになったサッカーは、どこにルーツがあり、どのようにして現在の形になったのでしょうか。サッカーの誕生から現代のワールドカップに至るまで、サッカー初心者の方は理解が深まるように、詳しい方は新たな発見があるように、歴史を紐解きます。
「サッカーの起源はどこか?」という問いは、非常に魅力的なテーマです。私たちが現在楽しんでいるルールの原型が整ったのは19世紀のイギリスですが、その根幹にある「丸いものを蹴って競う」という行為は、さらに古い紀元前後にまでさかのぼります。
実はサッカーの起源ははっきりとわかっているわけではなく、世界各地に諸説存在しているんです。
FIFA(国際サッカー連盟)が、数ある説の中で歴史的な証拠に基づいて「最古の形態」と公認しているのが、中国の「蹴鞠(しゅうきく)」です。
紀元前4世紀頃から軍事訓練の一環として、兵士たちの身体能力を高めるために行われていたのだそうです。
ボールは毛髪や羽毛を詰めた革製。ルールも独特で、12人のチーム戦で現在のように地上にゴールを置くのではなく、高い場所に設定された「球門」に蹴り込んだら得点というものでした。
その後、過酷な訓練は漢代から宋代にかけて宮廷の華やかな行事となり、やがて庶民の間へと普及していきました。宋代には「斉雲社」と呼ばれる現代のサッカークラブのような組織が結成されてルールも明文化されるなど、発展していったのです。
日本にも奈良時代初頭までに伝来し、「けまり」として独自の形で楽しまれるようになりました。今でいうリフティングのように、数人が輪になって鞠を地面に落とさないように蹴り続けるというものです。
今でも神社の催しなどで蹴鞠が披露されることがあります。最近では秋篠宮家の長男・悠仁さまも京都で蹴鞠を楽しまれたそうですよ。
現在のサッカーが持つ集団でゴールを競う形の原型と言えるのは、中世イングランドの「モブフットボール」です。
8世紀頃のイングランドでは戦争に勝つと、敵の将軍の首を切り取って蹴り合うという野蛮な行為が行われていたといいます。それが生首ではなく、ボールを蹴ることで村同士が争うゲームへと発展していきました。
お祭りの行事として行われ、隣り合う村と村が数キロ離れたそれぞれの拠点をゴールに見立てて競い合いました。参加人数に制限はなく数百人、時には千人単位の男たちが入り乱れ、当時は豚の膀胱を膨らませた一つのボールを奪い合ったのです。
当時のルールはとてもシンプルで、「殺人と重傷を負わせること以外は何でもあり」。道など関係なく川を泳ぐこともあれば、民家の壁を乗り越えてボールを蹴り合う姿はもはや暴動でした。
そのため、エドワード2世やエドワード3世といった歴代の英国王たちは「公共の秩序を乱す遊び」として、1300年代に何度も禁止令を出したほどです。
しかし、民衆はこのフットボールへの熱狂を捨てませんでした。禁止されてもボールを蹴ることをやめず、脈々と受け継がれ近代フットボールへとつながっていきました。
16世紀、イタリアの芸術の都フィレンツェで発展した「カルチョ・ストーリコ」も、サッカーの歴史を語る上で外せないピースです。これは当時の貴族や騎士たちが、自らの武勇と美学を示すための高貴な競技でした。
カルチョ・ストーリコは、27人対27人で戦う現代で言えばラグビーと格闘技を混ぜ合わせたような激しいスポーツです。
足と手の両方を使うことができて、砂場の競技場内のゴールにボールを投げ入れることで得点となるルールでした。
特筆すべきは「ポジション」の概念が明確に存在したことです。現代のFW、MF、DF、GKのように、前線で攻撃を担う人や中盤で相手を潰す役、ゴールを守る最後の砦など、27人にそれぞれ役割が与えられていました。
試合時間は50分間、パンチや肘打ち、絞め技もありで格闘技の要素が強く、怪我で退場した選手の補充がないため、いかに格闘で数的優位を作りながらボールを運ぶかという工夫が必要だったのがカルチョのポイント。ここで「戦術的な集団競技」としての基礎が作られていったのです。
カルチョ・ストーリコの名残りとして、イタリアではサッカーのことは「カルチョ」と呼ばれています。
それでは、現代のような11人対11人のサッカーは、いつどこで生まれて、どのように広まっていったのでしょうか。
イングランドで一つの形となり、その熱狂はやがて日本へも伝わっていきます。
世界各地で人々が興じていたボール蹴りが一つの共通ルールを持つ「サッカー」へと進化したのは、19世紀のイギリスでした。
1863年、ロンドンの居酒屋「フリーメイソンズ・タバーン」に紳士たちが集まり、フットボール・アソシエーション(FA)を設立。ここで「手を使うのはなし」「相手を蹴るのも禁止」という約束が交わされ、近代サッカーが産声を上げました。
当時のイギリスの産業革命の勢いに乗って、ルール化されたサッカーは世界に広まっていきます。世界各地に派遣されたイギリスの技術者や船乗りたちが仕事の合間にボールを蹴り始めたのが普及のきっかけです。 南米の港町やヨーロッパの建設現場で、現地の人々はイギリス人が持ってきたフットボールに胸を高鳴らせました。
鉄道の延伸とともにチーム同士の遠征が可能になり、1888年には世界最古のプロリーグがイングランドで誕生。今日のプレミアリーグへと通じる世界最高峰のサッカーリーグの始まりがここにありました。
日本にサッカーの灯がともったのは、明治維新という激動の時代でした。
1873年(明治6年)、東京・築地の海軍兵学校に教官として来日したイギリス海軍のアーチボルド・ルシアス・ダグラス少佐が、学生たちに教えたのが始まりとされています。
当時は「フートボール」と呼ばれ、西洋の進んだ文化を象徴するものでした。その後、東京高等師範学校(現・筑波大学)などの教育機関を通じて全国へ広まっていきます。
1918年(大正7年)には、現在の全国高等学校サッカー選手権大会の前身にあたる第1回日本フートボール優勝大会が大阪の豊中グラウンドで開催されました。
1921年には現在の日本サッカー協会の前身の大日本蹴球協会が設立され、同じ年には天皇杯全日本サッカー選手権大会の第1回大会となるア式蹴球全国優勝競技会を開催。第1回はわずか4チームの参加でした。
ここから、ワールドカップへとつながる日本サッカーの歴史が始まったのです。
長らくアマチュア主導だった日本サッカーの大きな転換点となったのは、1993年の日本初のプロリーグ「Jリーグ」の開幕です。
1993年5月15日、国立競技場で行われたヴェルディ川崎対横浜マリノスの開幕は超満員。10クラブで始まったリーグ戦は全国各地で盛り上がり、試合中は小型ラッパのチアホーンの音が鳴り響くなど、Jリーグブームが起きました。
元ブラジル代表のジーコや、西ドイツ代表でワールドカップ優勝経験があるピエール・リトバルスキーといったワールドクラスの選手をはじめ、三浦知良やラモス瑠偉ら日本のスター選手の活躍もサッカー人気に拍車をかけました。
三浦知良は初代JリーグMVP。2026年の今、59歳で現役を続けているのは当時は誰も想像していなかったでしょう。
プロ化によって急激に力をつけた日本サッカー界は、日本代表が1998年のフランスワールドカップに初出場。2002年は日韓共催のワールドカップで初の決勝トーナメントに進み、ベスト16入りを果たします。
三浦知良や中田英寿といった海外組のパイオニアの後を、香川真司や本田圭佑らが続き、今では日本代表のほとんどが海外組に。ワールドカップ優勝国のドイツやスペイン、ブラジルやイングランドに勝利するまで、レベルアップしてきました。
4年に一度開かれる地球最大のスポーツの祭典ワールドカップ。今から約100年前、1930年に第1回大会が開かれ、その歴史が始まりました。
そして、2026年にまた新たな1ページが刻まれます。
サッカーが地球規模で普及するにつれ、「真の世界一を決めたい」という願いが形になったのがワールドカップです。FIFAのジュール・リメ会長の執念が実を結び、1930年に第1回大会が開催されました。
記念すべき第1回大会の開催地に選ばれたのは、南米のウルグアイです。当時のウルグアイはオリンピックを連覇していた世界最強国。さらに「建国100周年の祝典として、スタジアムを新設し、参加国の渡航費や滞在費まで負担する」という驚きの提案をしたことが決め手となりました。
大会には13チームが参加。決勝ではウルグアイがアルゼンチンを4-2で破り、初代王者の座を勝ち取りました。
当時は飛行機ではなく船での移動が中心で、大陸を越えるのに数ヶ月を要したという物理的な理由もありましたが、それ以上に「希少価値」という仕掛けが込められています。4年の間に各大陸で予選が行われ、新たな選手が台頭する、開催地はインフラ整備に万全を期す。そして、約1ヶ月間のドラマに世界中が熱狂するというサイクルができているのです。
第23回のワールドカップは、2026年6月11日から7月19日にかけて開催されます。
今大会は史上初となる3カ国共催(アメリカ・カナダ・メキシコ)。北米大陸をまるごと使うような大規模なスケールで行われます。
また、大会のフォーマットが変わり、新しいワールドカップの形となるのも特徴です。出場国が32から48へと拡大され、全104試合という長期間のバトルが繰り広げられます。
選手にとっては気候や時差、移動の負担が大きく、過酷な大会となりそうです。
一方で、メキシコの伝説的なスタジアムからアメリカのハイテクアリーナまで観客にとってはエンターテインメント性が高く、「世界最大の祭典」の名にふさわしい、歴史的な大会になることは間違いありません。
22回を数えるワールドカップの歴史の中では、様々なことが起こってきました。その中から5つを面白雑学としてピックアップしました。
初期の優勝トロフィー「ジュール・リメ杯」は、2度も盗難事件に遭っています。
1966年、ロンドンで展示中に盗まれ行方不明に。約1週間後に発見したのは、なんと散歩中の犬。新聞紙で包まれたジュール・リメ杯が無事回収されました。
しかし、再び盗まれてしまいます。3度目の優勝を果たしたブラジルが永久保持することになりましたが、1983年にリオデジャネイロのブラジルサッカー協会本部から何者かによって盗まれ、いまだに見つかっていません。
ワールドカップの史上最年長出場は、エジプト代表のゴールキーパー、エサム・エル=ハダリが2018年のロシアワールドカップで記録した45歳161日です。
史上最年少出場は1982年のスペイン大会で北アイルランドのノーマン・ホワイトサイドが記録した17歳41日。親子ほど年が離れた選手たちが同じピッチに立つのも、ワールドカップの魅力です。
これまで22回の歴史があるワールドカップで、優勝を経験したことがある国は8カ国しかありません。ウルグアイ、ブラジル、アルゼンチン、イタリア、ドイツ、イングランド、スペイン、フランスです。最多はブラジルの5回。イタリアは4回の優勝を誇りますが、直近は2026年大会を含めて3大会連続で予選敗退の悲劇に遭っています。
優勝した国は、いずれも母国出身の監督が率いていたというのも特徴です。
ワールドカップでは開催国は地の利があって有利というのが定説でした。実際、第1回から2018年ロシア大会まで、開催国は必ずグループリーグを突破するというジンクスがあったのです。しかし、2022年カタール大会でついにその歴史が途絶えました。カタールがグループリーグ3戦全敗。開催国であるにも関わらず、決勝トーナメントに進めませんでした。
今では当たり前のイエローカードとレッドカード。
これらが導入されたのは1970年のメキシコワールドカップからです。きっかけは、その前の大会で言葉が通じない審判と選手の間でトラブルが起きたこと。
審判員だったケネス・アストンが信号機を見て「色なら世界共通で伝わる」と思いついて、カードを提示するようになったのです。
ワールドカップは数々のスター選手たちが、その歴史を彩ってきました。スーパープレーに観客は熱狂し、選手は国の威信を背負って人生をかけて戦うのです。
ブラジルが生んだ「サッカーの王様」ことペレ(本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント)は、サッカー王国を象徴する存在です。
17歳という若さで1958年ワールドカップに出場し、いきなりブラジルを初優勝へ導く活躍を見せました。その後、いまだに破られていない史上唯一の通算3度のワールドカップ優勝を成し遂げ、キャリアを通じて1000ゴール以上という記録を残しています。
華麗なテクニックと圧倒的な身体能力で、ペレやブラジルサッカーの代名詞でもある「美しいゲーム(Jogo Bonito)」という言葉を世に広めました。そして、人種差別の壁を越え、世界中の人々を魅了し、ペレを見るためにナイジェリア内戦さえも一時的に止めさせたことがあります。
現代まで続く「背番号10=エース」という概念を定着させたのも、ペレです。
サッカーの歴史を語る上で欠かせない、伝説的なゴールを決めたのがアルゼンチンのディエゴ・マラドーナです。1986年のワールドカップメキシコ大会、準々決勝のイングランド戦で「神の手」と「5人抜き」の衝撃的なゴールを奪いました。
GKと競り合いながらヘディングで決めたかのように見えたゴールは、実は左手に当たっていました。
そしてわずか数分後、ハーフウェーライン付近から1人、2人と次々に相手をかわし、最後はGKも抜き去り、合計5人を抜いてゴールを決めたのです。
この大会でマラドーナは母国をキャプテンとして優勝に導きました。薬物依存や、1994年のワールドカップアメリカ大会ではドーピング検査で禁止薬物が検出されて大会から追放されるなど問題もありましたが、そのプレーは今も世界中のサッカーファンの心に強く刻まれています。
史上最高の選手「GOAT:Greatest of All Time」と呼ばれるのがアルゼンチンのリオネル・メッシです。一瞬で相手を置き去りにするドリブル、左足から繰り出される正確なパスやシュートでゴールやアシストを量産してきました。
世界年間最優秀選手に贈られるバロンドールは史上最多の8回受賞。バルセロナではクラブ歴代通算最多得点の672ゴール。2012年に公式戦で年間91ゴールを記録してギネス世界記録に認定されるなど、メッシがボールを持つとゴールを決めるのが簡単なことのように錯覚してしまうほどです。
しかし、アルゼンチン代表ではなかなかタイトルに手が届きませんでした。常に同じ左利きの英雄マラドーナと比較され、「メッシは代表では輝けない」と批判されることも。それでも、ついに2022年カタールワールドカップで、決勝はPK戦にまでもつれる激闘の末にフランスを下して優勝。大会MVPも獲得し、トロフィーにキスした場面はマラドーナと肩を並べた瞬間でした。
2026年大会がメッシにとって最後のワールドカップになるのか、生きる伝説に注目が集まります。
一つのボールの行方に世界中が熱狂するサッカー。古代中国の軍事訓練や中世イングランドの狂乱を経て、近代イギリスでルールという形が作られて発展してきました。その歴史を振り返ると、それは単なるスポーツの枠組みだけではなく、情熱が国境を越え、人々を繋いできた壮大な物語であることがわかります。
ボールが一つあれば、言葉が通じなくても一瞬で友達になれる。そのシンプルさこそが、サッカーが世界最大のスポーツであり続ける魅力です。
2026年、北中米ワールドカップでは新たな歴史の1ページが刻まれます。
どんなプレーが見られるのか、そして日本代表はどこまで勝ち上がることができるのか、楽しみは尽きません。
世界で最も人気があるスポーツのサッカー。
特に世界一を決めるワールドカップは世界中が熱狂し、世界最大の祭典と言えます。FIFA(国際サッカー連盟)のまとめでは、2022年カタール大会の累計視聴者数は約56億人で、決勝戦は約15億人がテレビや配信で観戦したとされています。
これほどまでの人気を集めるようになったサッカーは、どこにルーツがあり、どのようにして現在の形になったのでしょうか。
サッカーの誕生から現代のワールドカップに至るまで、サッカー初心者の方は理解が深まるように、詳しい方は新たな発見があるように、歴史を紐解きます。
目次
サッカーの始まりはいつ?紀元前からの説も
「サッカーの起源はどこか?」という問いは、非常に魅力的なテーマです。
私たちが現在楽しんでいるルールの原型が整ったのは19世紀のイギリスですが、その根幹にある「丸いものを蹴って競う」という行為は、さらに古い紀元前後にまでさかのぼります。
実はサッカーの起源ははっきりとわかっているわけではなく、世界各地に諸説存在しているんです。
FIFA公認の中国説
FIFA(国際サッカー連盟)が、数ある説の中で歴史的な証拠に基づいて「最古の形態」と公認しているのが、中国の「蹴鞠(しゅうきく)」です。
紀元前4世紀頃から軍事訓練の一環として、兵士たちの身体能力を高めるために行われていたのだそうです。
ボールは毛髪や羽毛を詰めた革製。
ルールも独特で、12人のチーム戦で現在のように地上にゴールを置くのではなく、高い場所に設定された「球門」に蹴り込んだら得点というものでした。
その後、過酷な訓練は漢代から宋代にかけて宮廷の華やかな行事となり、やがて庶民の間へと普及していきました。
宋代には「斉雲社」と呼ばれる現代のサッカークラブのような組織が結成されてルールも明文化されるなど、発展していったのです。
日本にも奈良時代初頭までに伝来し、「けまり」として独自の形で楽しまれるようになりました。
今でいうリフティングのように、数人が輪になって鞠を地面に落とさないように蹴り続けるというものです。
今でも神社の催しなどで蹴鞠が披露されることがあります。最近では秋篠宮家の長男・悠仁さまも京都で蹴鞠を楽しまれたそうですよ。
以前は定説だった中世イングランド説
現在のサッカーが持つ集団でゴールを競う形の原型と言えるのは、中世イングランドの「モブフットボール」です。
8世紀頃のイングランドでは戦争に勝つと、敵の将軍の首を切り取って蹴り合うという野蛮な行為が行われていたといいます。それが生首ではなく、ボールを蹴ることで村同士が争うゲームへと発展していきました。
お祭りの行事として行われ、隣り合う村と村が数キロ離れたそれぞれの拠点をゴールに見立てて競い合いました。参加人数に制限はなく数百人、時には千人単位の男たちが入り乱れ、当時は豚の膀胱を膨らませた一つのボールを奪い合ったのです。
当時のルールはとてもシンプルで、「殺人と重傷を負わせること以外は何でもあり」。
道など関係なく川を泳ぐこともあれば、民家の壁を乗り越えてボールを蹴り合う姿はもはや暴動でした。
そのため、エドワード2世やエドワード3世といった歴代の英国王たちは「公共の秩序を乱す遊び」として、
1300年代に何度も禁止令を出したほどです。
しかし、民衆はこのフットボールへの熱狂を捨てませんでした。
禁止されてもボールを蹴ることをやめず、脈々と受け継がれ近代フットボールへとつながっていきました。
「カルチョ」の源流イタリア説
16世紀、イタリアの芸術の都フィレンツェで発展した「カルチョ・ストーリコ」も、サッカーの歴史を語る上で外せないピースです。これは当時の貴族や騎士たちが、自らの武勇と美学を示すための高貴な競技でした。
カルチョ・ストーリコは、27人対27人で戦う現代で言えばラグビーと格闘技を混ぜ合わせたような激しいスポーツです。
足と手の両方を使うことができて、砂場の競技場内のゴールにボールを投げ入れることで得点となるルールでした。
特筆すべきは「ポジション」の概念が明確に存在したことです。現代のFW、MF、DF、GKのように、前線で攻撃を担う人や中盤で相手を潰す役、ゴールを守る最後の砦など、27人にそれぞれ役割が与えられていました。
試合時間は50分間、パンチや肘打ち、絞め技もありで格闘技の要素が強く、怪我で退場した選手の補充がないため、いかに格闘で数的優位を作りながらボールを運ぶかという工夫が必要だったのがカルチョのポイント。
ここで「戦術的な集団競技」としての基礎が作られていったのです。
カルチョ・ストーリコの名残りとして、イタリアではサッカーのことは「カルチョ」と呼ばれています。
11人対11人のサッカーが生まれた歴史と経緯
それでは、現代のような11人対11人のサッカーは、いつどこで生まれて、どのように広まっていったのでしょうか。
イングランドで一つの形となり、その熱狂はやがて日本へも伝わっていきます。
現代のサッカーの原点はイングランドFAから
世界各地で人々が興じていたボール蹴りが一つの共通ルールを持つ「サッカー」へと進化したのは、19世紀のイギリスでした。
1863年、ロンドンの居酒屋「フリーメイソンズ・タバーン」に紳士たちが集まり、フットボール・アソシエーション(FA)を設立。ここで「手を使うのはなし」「相手を蹴るのも禁止」という約束が交わされ、近代サッカーが産声を上げました。
当時のイギリスの産業革命の勢いに乗って、ルール化されたサッカーは世界に広まっていきます。世界各地に派遣されたイギリスの技術者や船乗りたちが仕事の合間にボールを蹴り始めたのが普及のきっかけです。 南米の港町やヨーロッパの建設現場で、現地の人々はイギリス人が持ってきたフットボールに胸を高鳴らせました。
鉄道の延伸とともにチーム同士の遠征が可能になり、1888年には世界最古のプロリーグがイングランドで誕生。今日のプレミアリーグへと通じる世界最高峰のサッカーリーグの始まりがここにありました。
明治維新のさなかにサッカーは日本へ
日本にサッカーの灯がともったのは、明治維新という激動の時代でした。
1873年(明治6年)、東京・築地の海軍兵学校に教官として来日したイギリス海軍のアーチボルド・ルシアス・ダグラス少佐が、学生たちに教えたのが始まりとされています。
当時は「フートボール」と呼ばれ、西洋の進んだ文化を象徴するものでした。その後、東京高等師範学校(現・筑波大学)などの教育機関を通じて全国へ広まっていきます。
1918年(大正7年)には、現在の全国高等学校サッカー選手権大会の前身にあたる第1回日本フートボール優勝大会が大阪の豊中グラウンドで開催されました。
1921年には現在の日本サッカー協会の前身の大日本蹴球協会が設立され、同じ年には天皇杯全日本サッカー選手権大会の第1回大会となるア式蹴球全国優勝競技会を開催。第1回はわずか4チームの参加でした。
ここから、ワールドカップへとつながる日本サッカーの歴史が始まったのです。
Jリーグ開幕で日本サッカーは急成長
長らくアマチュア主導だった日本サッカーの大きな転換点となったのは、1993年の日本初のプロリーグ
「Jリーグ」の開幕です。
1993年5月15日、国立競技場で行われたヴェルディ川崎対横浜マリノスの開幕は超満員。10クラブで始まったリーグ戦は全国各地で盛り上がり、試合中は小型ラッパのチアホーンの音が鳴り響くなど、Jリーグブームが起きました。
元ブラジル代表のジーコや、西ドイツ代表でワールドカップ優勝経験があるピエール・リトバルスキーといったワールドクラスの選手をはじめ、三浦知良やラモス瑠偉ら日本のスター選手の活躍もサッカー人気に拍車をかけました。
三浦知良は初代JリーグMVP。
2026年の今、59歳で現役を続けているのは当時は誰も想像していなかったでしょう。
プロ化によって急激に力をつけた日本サッカー界は、日本代表が1998年のフランスワールドカップに初出場。2002年は日韓共催のワールドカップで初の決勝トーナメントに進み、ベスト16入りを果たします。
三浦知良や中田英寿といった海外組のパイオニアの後を、香川真司や本田圭佑らが続き、今では日本代表のほとんどが海外組に。
ワールドカップ優勝国のドイツやスペイン、ブラジルやイングランドに勝利するまで、レベルアップしてきました。
ワールドカップはいつからはじまった?
4年に一度開かれる地球最大のスポーツの祭典ワールドカップ。
今から約100年前、1930年に第1回大会が開かれ、その歴史が始まりました。
そして、2026年にまた新たな1ページが刻まれます。
4年に1度なのはワールドカップの価値を高める仕掛け
サッカーが地球規模で普及するにつれ、「真の世界一を決めたい」という願いが形になったのがワールドカップです。
FIFAのジュール・リメ会長の執念が実を結び、1930年に第1回大会が開催されました。
記念すべき第1回大会の開催地に選ばれたのは、南米のウルグアイです。
当時のウルグアイはオリンピックを連覇していた世界最強国。さらに「建国100周年の祝典として、スタジアムを新設し、参加国の渡航費や滞在費まで負担する」という驚きの提案をしたことが決め手となりました。
大会には13チームが参加。決勝ではウルグアイがアルゼンチンを4-2で破り、初代王者の座を勝ち取りました。
ワールドカップは、なぜ4年に一度なのか?
当時は飛行機ではなく船での移動が中心で、大陸を越えるのに数ヶ月を要したという物理的な理由もありましたが、それ以上に「希少価値」という仕掛けが込められています。
4年の間に各大陸で予選が行われ、新たな選手が台頭する、開催地はインフラ整備に万全を期す。
そして、約1ヶ月間のドラマに世界中が熱狂するというサイクルができているのです。
当時は飛行機ではなく船での移動が中心で、大陸を越えるのに数ヶ月を要したという物理的な理由もありましたが、それ以上に「希少価値」という仕掛けが込められています。
4年の間に各大陸で予選が行われ、新たな選手が台頭する、開催地はインフラ整備に万全を期す。
そして、約1ヶ月間のドラマに世界中が熱狂するというサイクルができているのです。
2026年ワールドカップは新フォーマットに
第23回のワールドカップは、2026年6月11日から7月19日にかけて開催されます。
今大会は史上初となる3カ国共催(アメリカ・カナダ・メキシコ)。北米大陸をまるごと使うような大規模なスケールで行われます。
また、大会のフォーマットが変わり、新しいワールドカップの形となるのも特徴です。
出場国が32から48へと拡大され、全104試合という長期間のバトルが繰り広げられます。
選手にとっては気候や時差、移動の負担が大きく、過酷な大会となりそうです。
一方で、メキシコの伝説的なスタジアムからアメリカのハイテクアリーナまで観客にとってはエンターテインメント性が高く、「世界最大の祭典」の名にふさわしい、歴史的な大会になることは間違いありません。
ワールドカップの面白雑学5選
22回を数えるワールドカップの歴史の中では、様々なことが起こってきました。その中から5つを面白雑学としてピックアップしました。
2度も盗まれたトロフィー
初期の優勝トロフィー「ジュール・リメ杯」は、2度も盗難事件に遭っています。
1966年、ロンドンで展示中に盗まれ行方不明に。約1週間後に発見したのは、なんと散歩中の犬。新聞紙で包まれたジュール・リメ杯が無事回収されました。
しかし、再び盗まれてしまいます。3度目の優勝を果たしたブラジルが永久保持することになりましたが、
1983年にリオデジャネイロのブラジルサッカー協会本部から何者かによって盗まれ、いまだに見つかっていません。
最年長出場は45歳
ワールドカップの史上最年長出場は、エジプト代表のゴールキーパー、エサム・エル=ハダリが2018年のロシアワールドカップで記録した45歳161日です。
史上最年少出場は1982年のスペイン大会で北アイルランドのノーマン・ホワイトサイドが記録した17歳41日。親子ほど年が離れた選手たちが同じピッチに立つのも、ワールドカップの魅力です。
優勝経験国は8カ国
これまで22回の歴史があるワールドカップで、優勝を経験したことがある国は8カ国しかありません。
ウルグアイ、ブラジル、アルゼンチン、イタリア、ドイツ、イングランド、スペイン、フランスです。最多はブラジルの5回。イタリアは4回の優勝を誇りますが、直近は2026年大会を含めて3大会連続で予選敗退の悲劇に遭っています。
優勝した国は、いずれも母国出身の監督が率いていたというのも特徴です。
途切れた開催国のジンクス
ワールドカップでは開催国は地の利があって有利というのが定説でした。
実際、第1回から2018年ロシア大会まで、開催国は必ずグループリーグを突破するというジンクスがあったのです。
しかし、2022年カタール大会でついにその歴史が途絶えました。
カタールがグループリーグ3戦全敗。開催国であるにも関わらず、決勝トーナメントに進めませんでした。
イエローカードが生まれたのは1970年大会から
今では当たり前のイエローカードとレッドカード。
これらが導入されたのは1970年のメキシコワールドカップからです。
きっかけは、その前の大会で言葉が通じない審判と選手の間でトラブルが起きたこと。
審判員だったケネス・アストンが信号機を見て「色なら世界共通で伝わる」と思いついて、カードを提示するようになったのです。
サッカーの歴史を変えたスター選手たち
ワールドカップは数々のスター選手たちが、その歴史を彩ってきました。
スーパープレーに観客は熱狂し、選手は国の威信を背負って人生をかけて戦うのです。
サッカー王国の王様ペレ
https://www.gqjapan.jp/culture/article/pele-soccer-legend-dead-82-news
ブラジルが生んだ「サッカーの王様」ことペレ(本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント)は、サッカー王国を象徴する存在です。
17歳という若さで1958年ワールドカップに出場し、いきなりブラジルを初優勝へ導く活躍を見せました。その後、いまだに破られていない史上唯一の通算3度のワールドカップ優勝を成し遂げ、キャリアを通じて
1000ゴール以上という記録を残しています。
華麗なテクニックと圧倒的な身体能力で、ペレやブラジルサッカーの代名詞でもある「美しいゲーム(Jogo Bonito)」という言葉を世に広めました。そして、人種差別の壁を越え、世界中の人々を魅了し、ペレを見るためにナイジェリア内戦さえも一時的に止めさせたことがあります。
現代まで続く「背番号10=エース」という概念を定着させたのも、ペレです。
神の手と5人抜きの伝説ディエゴ・マラドーナ
https://www.cnn.co.jp/photo/35163000.html
サッカーの歴史を語る上で欠かせない、伝説的なゴールを決めたのがアルゼンチンのディエゴ・マラドーナです。
1986年のワールドカップメキシコ大会、準々決勝のイングランド戦で「神の手」と「5人抜き」の衝撃的なゴールを奪いました。
GKと競り合いながらヘディングで決めたかのように見えたゴールは、実は左手に当たっていました。
そしてわずか数分後、ハーフウェーライン付近から1人、2人と次々に相手をかわし、最後はGKも抜き去り、合計5人を抜いてゴールを決めたのです。
この大会でマラドーナは母国をキャプテンとして優勝に導きました。
薬物依存や、1994年のワールドカップアメリカ大会ではドーピング検査で禁止薬物が検出されて大会から追放されるなど問題もありましたが、そのプレーは今も世界中のサッカーファンの心に強く刻まれています。
記録を塗り替え続けた史上最高の選手リオネル・メッシ
https://www.football-zone.net/archives/423058
史上最高の選手「GOAT:Greatest of All Time」と呼ばれるのがアルゼンチンのリオネル・メッシです。
一瞬で相手を置き去りにするドリブル、左足から繰り出される正確なパスやシュートでゴールやアシストを量産してきました。
世界年間最優秀選手に贈られるバロンドールは史上最多の8回受賞。
バルセロナではクラブ歴代通算最多得点の672ゴール。2012年に公式戦で年間91ゴールを記録してギネス世界記録に認定されるなど、メッシがボールを持つとゴールを決めるのが簡単なことのように錯覚してしまうほどです。
しかし、アルゼンチン代表ではなかなかタイトルに手が届きませんでした。常に同じ左利きの英雄マラドーナと比較され、「メッシは代表では輝けない」と批判されることも。
それでも、ついに2022年カタールワールドカップで、決勝はPK戦にまでもつれる激闘の末にフランスを下して優勝。大会MVPも獲得し、トロフィーにキスした場面はマラドーナと肩を並べた瞬間でした。
2026年大会がメッシにとって最後のワールドカップになるのか、生きる伝説に注目が集まります。
サッカーはボールひとつから始まった世界の物語
一つのボールの行方に世界中が熱狂するサッカー。
古代中国の軍事訓練や中世イングランドの狂乱を経て、近代イギリスでルールという形が作られて発展してきました。その歴史を振り返ると、それは単なるスポーツの枠組みだけではなく、情熱が国境を越え、人々を繋いできた壮大な物語であることがわかります。
ボールが一つあれば、言葉が通じなくても一瞬で友達になれる。そのシンプルさこそが、サッカーが世界最大のスポーツであり続ける魅力です。
2026年、北中米ワールドカップでは新たな歴史の1ページが刻まれます。
どんなプレーが見られるのか、そして日本代表はどこまで勝ち上がることができるのか、楽しみは尽きません。
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