2022.08.23

祭 –生きる命の逞しさ -

朝のニュースで、花火大会のあとの混雑する駅舎の様子が映し出されていた。
コロナ後2年半が経って、こういったことは久しぶりだから、皆対処法を忘れてしまったのだろうか。

大声を張り上げる駅員。けんか腰の客。
ニュース番組は、祭やイベントに参加した後、帰宅時には冷静になるようにと呼びかけている。

「そいつは無理だよ」

思わずテレビに向って反論した。
花火は脳を痺れさせる。大きな音やチカチカした光でみんな酔っぱらっている。
ふだんそんな事は忘れて生活していても、四尺玉の下では問答無用で感情が揺さぶられてしまうものだ。
眠っていた感覚が、3年ぶりに目覚めてしまったなと思った。
ずっと我慢していた「祭」が帰ってきた。

祭 –生きる命の逞しさ -01

そもそも「祭」とはなんだろう。
辞書を引くと、「まつり」にはいくつかの意味がある。一つは「祀」。これは神に祈り、一定の場所に安置すること。それから神の御霊を慰める「祭」。そして「奉」。神に献上し、喜んでいただくもの。最後は「政」。政治を行うこと。すべての意味に共通するのは、「神」と関わっているということだ。

日本には、八百万の神々への感謝と畏怖が暮らしの中に根付いている。
それは「信仰」という表現では足りないほど深く刻まれていて、山や海に対する言い伝えはもちろん、手を合わせてご飯をいただくことがごく当たり前であるように、一粒のお米にも、トイレにも、大きな木にも神は宿っている。
神々の恵みへの感謝を祈り、天災や疫病を鎮めようと祈る「祀」がさまざまな要素を取り込んで進化し、共同体の催物となっていったのが、「祭」であるらしい。

祭 –生きる命の逞しさ -02

祭りは共同体とともにある

根源的に、人間は共同体を作って生きるときその中心となるもの、人々に共通する精神の核となるものを必要とするという。それが「神」という存在で、共同体の人々は、自分たちは同じ「神」と共にある感覚を共有するために祭を行うのだという。

そう言われても、なんだかピンと来ない。神と共にある感覚とは…うーん。
だけど、祭りは共同体でできているということは分かる。集団でなければお囃子を演奏したり、踊りや衣装や山車をつくることはできないし、それを教える人、受け継ぐひとがいなければ存続しないものだ。

共同体のなかの、やや古くさいと感じる伝統には、人間が生きていくうえで切り離せない人間関係や、「和」のまとまりが存在している。祭を行なうための準備、本番を迎える中でお互いのことをよく知り、絆を深めていく。祭に参加することは、それぞれの役割を担い、共同体のなかで欠けてはならない存在になるということだ。
共同体に根を張り、自分自身の存在意義を見出すということが、「祭」の大切な役割なのかもしれない。

昔の日本は、それがごく自然な繋がりであったのだと思う。情報や医療の乏しい時代、自然とともに生きる中で湧き起こる喜怒哀楽を、「神への祈り」と「人々の絆」で表現しようと形にあらわしたのが「祭」ではないだろうか。自然の前では誰もひとりでは生きられず、誰も死なせたくないという、生きることへの逞しさが凝縮されている。「祭」はいわば命の結晶のようだ。

祭 –生きる命の逞しさ -03

祭りができないということ

そんなこんなで、コロナがやって来たのである。
全国で、何十年・何百年と続いてきた「祭」が途絶えた。自然と共に生きる日本人の歴史のなかでは、今こそ「祭」をやるべき時なのかもしれないが、病を抱える人や、医療現場で働く人のことを考えると「出来ない」という現実にも納得せざるを得ない。

「祭」は不要不急。
神への祈りよりもワクチンや薬の開発だし、人々の絆はSNSやメッセージアプリで十分かもしれない。必要な情報にはすぐアクセスができ、命の危険を感じなくなったのだから、もう「祭」を必要としない世界になったのかもしれない。知人はこの3年間、空いた時間で生産的な趣味を見つけ、もう祭のあったころの生活には戻れないと言っていた。このまま「祭」がなくなったとして、一見、わたしたちは何も困ることはなさそうだ。

ますます私達は「ひとりでも大丈夫」となり、自然と距離をおいて過ごしていく。伝統を受け継ぐ人も、伝える人もいなくなり、共同体は崩壊していくのだろう。

私達はこのまま「祭」をしなくなっていくのだろうかと、さびしい気持ちになった。

祭 –生きる命の逞しさ -08

人はなぜ祭をするのか

祭囃子を聞くと、心が揺さぶられる。
阿波踊りのYOUTUBE映像を見ていると、言葉にならない感情がわきあがる。
コメント蘭には「なぜか涙が出た」「世界一美しい祭」などの言葉が飛び交っている。

一般社団法人マツリズムによる「祭に対する意識調査」によると、コロナ収束後に祭に参加したい人は約半数の48.1%となり、コロナでの自粛を経て、20代の2人に1人が以前よりも祭りに参加したいと思うようになったそうだ。

また、「あなたは、祭をオンラインで代替できると思いますか」と訊いたところ、全年代が「お祭りはオンラインで代替できない」と8割以上が思っていることが明らかになった。

「祭りはなくなってはいけないものだと思いますか。」という設問に対しては、
「そう思う」「ややそう思う」の合計が約7割となった。なくなってはいけない理由は、

1位 伝統文化だから
2位 四季を感じるイベントだから
3位 人を元気にするものだから

全年代が「日本の伝統文化だから」を選んでおり、伝統を重んじていることが明らかになった。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000015.000023777.html  より引用
対象者:全国の20歳~60歳の男女 400人(有効回答数)
調査期間 :2021年02月27日~3月1日

コロナ禍の制限を経て、日本人にとって「祭」に対する価値観や考え方が変わってきたのではないかと思う。意外ににも若い世代には、当たり前にあった伝統がなくなっていくことに敏感なのかもしれない。彼ら世代へと繋いでいくためにも、「和」を絶やしてはいけないと思った。

「神への祈り」、「人々の絆」といった本来的な祭の意味合いが薄くなったとしても、私たちはその瞬間の爆発的な輝きに、どうしても魅了されてしまうのではないだろうか。私たちの中に眠る、祭を求める心は止められないのだ。

祭 –生きる命の逞しさ -05

祭を未来に繋げる

「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」

だれもが知る阿波踊りの一節は、本当にその言葉通り、すべての連が行き過ぎた後ろに、観衆が踊り狂いながら続いていく。

青森ねぶた祭りでは、「跳人」と呼ばれる踊り手が、「らっせーらー!」の掛け声とともに体力の限り飛び跳ねて踊る。これは衣装が準備できれば、誰でも参加できるのだ。

あなたは祭に参加したことがあるだろうか。
大きな祭りじゃなくても、地域の盆踊り大会や縁日でも。参加することが祭を未来に繋げることになる。

祭 –生きる命の逞しさ -05.5

コロナ禍、そして共同体が崩れていく中で「祭」を繋げていくことは容易ではない。その流れに逆らうように、伝統を繋げようと努力している人たちのことがいることも知ってほしい。この記事を書くにあたり、「祭エンジン」というサイトをみつけた。

このサイトは、地域の産品を購入することで、「祭りを残したい」と考える地域に寄付をすることができるしくみが作られている。これも新しい形の祭への参加方法ではないだろうか。そして現地に足を運ぶことで、微力ながら応援をしていくことができる。

祭ENGIN  https://matsuriengine.com/

祭 –生きる命の逞しさ -06

私自身は、日本の伝統とは関係のない浅草サンバカーニバルに毎年出ているが、「浅草の夏の風物詩」として定着し、見る人を元気にしてくれるこの祭を絶やしたくない。たくさんの準備をして、真新しい衣装でスタート地点に立ったときの高揚感、ゴールして感じる仲間との熱い絆は、濃密に「生きている」ことを実感させてくれる。

「祭」は、日本人の力の源だ。その「祭」が危機を迎え、そして乗り越えようとしている。
祭を知り、参加し、応援する。私たちにもできることがある。このときだけはSNSもスマートフォンもOFFにして、祭囃子に体をまかせよう。できれば家族や仲間とその時間を共有しよう。きっと昔の人が本当に守りたかった「人々の絆」が、時代を超えて私達を繋いでくれることだろう。

祭 –生きる命の逞しさ -07

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ライタープロフィール:ぶらめがね

神社とお寺が心のふるさと。
会社ではグラフィックデザイン担当。
民俗の不思議とSambaの太鼓に魅せられ幾年月。


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